日本語で

教師になれば?

最近、俺の夢を前よりたくさん考えはじめた。もちろん、俺はいつも夢のことを考えている人なので、これは別に不思議な行動ではないけれど、今までの夢は「日本語を学ぶ」だったら、今は「日本語を使って、何をしたい?」という疑問が浮けべられている。

先週末は友達と随分会っていて、なぜか分からないけれど、二人以上はいきなり「エリオット、卒業したら何をしたい?」と聞かれました。それは軽く考えたことがあるんだが、いつも深く考えているのは「とりあえずペラペラになろう!」とか「留学しなきゃならない!」だけだった。ペラペラになったら、次の一歩はなんだろうか。

「もう日本語なら話せるよ!」と言われた。

しかし、もう夢を叶った気になれないよ。もっと大きな夢を見たい、もっと素晴らしい未来が欲しいです。確かに友達と日本語は話せるけれど、尊敬語や謙譲語はまだ利用できない。常用漢字はまだ全部覚えていない。朝日新聞はまだ楽に読めない。小説は完璧に分析できない。今よりずっとペラペラになれるはずだよ。

「どこまでペラペラになりたいの?」と聞かれた。

普通の日本人より上手くなりたいかな。あり得るでしょうか。

日曜日、ある友達が「英語助けてくれ」と頼まれた。言葉順番のことを教えようとしていて、シェフの彼に「文は難しいパズルじゃなくて、和食のレシピだ」と言った。

「パズルは普通に四角だから、北、南、東、西のことなどを集中しながら解決するんだけど、文はそんなに複雑じゃない。文はレシピのように、始めから終わりまで、予算された順番に沿って作る物だ。例えば、ラーメンを作ってるでしょう?ラーメンは、醤油を入れるけど、正しい時に入れなきゃならないでしょう?味噌汁を作った後とか、水を沸いた後とか、豚肉を焼く前とかね。文は同じだ。例えば『I like to eat ramen』という文が『I like to ramen eat』に変わると、意味は一気になくなるよね。だから、『Eat』の順番は『To』を入れる後、『ラーメン』の前だ。醤油と同じように。理由は分からないけど、お前も醤油の順番は化学的に分からないだろう?ただ、これは順番だと分かってるね」話を続いた。色々な話題を含めた。

終わったとたんに気づいたのは、聞いた方が三人増えてきた。皆がすごく笑ってくれて、「素晴らしく分かりやすい」も言ってくれた。

「何でエリオットのような教師はうちの高校にいなかったんだろう。エリオット、教師になれ!教師にならなきゃもったいないよ!」と友達も言ってくれた。昔は空手教師だったから、子供の育児とかはちょっと慣れているし、子供も好きだし、教えるのは楽しいと思う。今でも日本語の家庭教師として務めているので、自然に教師の仕事に向いているかもしれない。何のトピックでも、誰かに教えられたら、その誰かが何かを分かるようになられたら、俺は本当に嬉しいです。

じゃあ卒業したら、日本語を使ってどうしようかな、、、教師になれば?

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決心:日本語スタイル

It’s been a while since I’ve written anything in Japanese (darn N2, making us study only multiple choice questions), so I thought I’d translate my last post into Japanese! I didn’t do all of it, only the first four paragraphs or so (the part that isn’t about learning Japanese). Thanks for reading!

お正月が近付けば近付くほど、皆が来年の夢とか目標とかを思い描き始めるだろう。それに対して、夢などを叶えようとする決心とはどういうことなのだろうかと、俺は最近考えてた。

人々は目標があるからこそ自分が一流になると思っているのではないか。周りの人達も尊敬してくれるように自分の目標を発表するのではないか。目標を建てるだけでは成功すかのように思ってはいないだろうか。「いつかきっと、自分の会社の社長になります」、「必ずいつかよく売れる小説を出版します」、「いつか留学しますよ」、「もうすぐ日本語がペラペラになるよ」と思う人がいるはずだ。目標は思想の海に浮いている思想でしかない。目標自体は他の思想より価値を持っていない。簡単に言えば、「ねえ、今日はいいお天気だね」というのと同じ価値しか持たない。でもそれは、実際積極的に行動せずに、目標を達成しなかった場合だけのことである。実現させれば、目標が価値を持つようになると思う。

日本語がペラペラになることと心に決め、次の日の朝からたくさんの単語や漢字の勉強を始める、というのは簡単なことだ。自分に「今年こそマッチョになる」と自分を励ますのも簡単だ。難しいのは自分の決心を支え、努力し続け、夢を現実にすることだ。俺達の大半は一週間ぐらい経ったら決心が弱くなり、その中のもうちょっと優れた目標を達成できる人達も一ヶ月が経つと飽きて、退屈になるのではないか。しかし世界の最も偉大な目標を成功させる人々は、俺達の夢はそれに比べれば全然つまらないと思わせるような人々の決心は、あくまで弱くならないみたい。飽きることもしないみたい。俺達が巨大な山を登ろうとしている汽車だとしたら、向こうは宇宙に打ち上げられるロケットだ。俺達は重力、天気、石炭などの問題を扱わないといけないけれど、向こうは摩擦なしで、いつまでも飛べ続けることができ、激突の場合でしか止められないようだ。

でもこれは本当なのだろうか。一旦に行動を決めたら決して飽きず、諦めない人が現実に存在するだろうか。個人的に俺ははそう思わない。単に俺達よりも優れた車掌にすぎない思う。自分の汽車でその山を順調に登る方法を分かっているだけではないのか。世界の最も成功できる人達の中の一番成功できる人ですら時々疲れる。俺達とその人の相違はこれだけ:そいつは自分の疲れの上手い扱い方がよく分かっている。でも俺ら一流ではない人達は一日休だら、その一日が一週間になり、その一週間が一ヶ月になり、その一ヶ月は結局一年間になる。いつの間にか、その休んだ一日は大切にしていた目標を諦めた理由となる。「40ポンドやせるつもりだったか?そういえばそうだね。もう55ポンドやせるしかないね。最近太ったみたいやな」。目標が目標の墓場に沈むのを見るとはとても悲しいことだ。俺も一回二回経験したことがあり、もう飽きてきた。

皆さん、目標や夢を死なせ夢の墓場に沈めるのは辞めよう。一緒に夢を現実にしよう!


最近気に入ったグループ:ONE☆DRAFT

今日はちょっと忙しいから、短いポストにしよう。

カズマという友達はオレにこのグループを紹介してくれた。

二ヶ月前の曲なんだけど、結構いい感じじゃない?

じゃねえ


ファッションと言語

ファッションと言語は関係があると思いますか。より詳しく言えば、ファッションの変化は言語にも同じような変化を起こすだろうか。その逆に、言語の変化はファッションに変化を起こすだろうか。

アメリカでは、ファッションと話し方の関係は大変分かりやすいけれど、簡単なことではない。なぜなら、その関係はファッションと言語の二つだけではなく、音楽についても考えなければならないからである。音楽の進化とともに話し方も変わり、それと同時にファッションスタイルも変わる。過去のディスコの時代は、例えば「Groovy」のようなスラングが人気だったが、最近のラップやヒップホップの時代は暴力的なスラングが人気であり、それぞれの時代にはそれぞれの独自のファッションがあるそうである。ディスコ時代の洋服は派手かつタイトで、ラップ時代のは黒っぽく、大き過ぎるようになった。つまり、音楽や語り方が転化をし、ファッションスタイルも転化をしたわけである。

しかし、その三つの転化をよく分析すると、音楽、言語、またはファッションの中から、どれが原因なのかを選ぶのは簡単ではない。ファッション転化の理由は音楽と喋り方だろうか。それとも、音楽転化の理由は語り方とファッションだろうかか、語り方転化の理由は音楽とファッションだろうか。もしその三つの例が全く不可能で、二つの転化が残っている一つの転化の結果になったんだろうか。三角のようなことだから、お互いはイコール影響を及ぼし、全部は一度に転化へ進み続けているらしい。アメリカの例だけでは理由をはっきり示すことが出来ないが、もし日本にもそういうスタイルの関係があり、その関係の中から理由が見付かれば、世界中のスタイル転化理由を見付けられるかもしれない。

日本語とアメリカの英語の碑現が違うのは事実にである。英語の言葉遣いは男女であまり変わらないけれど、日本語のはその逆だ。例えば、女性的な日本語の喋り方では、いつも自分のことを「私/あたし」で呼ぶが、男性は丁寧語で話していない場合は、「僕/俺」で自分のことを呼ぶことができる。しかし、もし女性が「なぁ、行ったのは俺だから、おメェや関係ねぇだろう!」と言ったら、皆変だと思うはず。それほど、普通の喋り方ではない。普通、女性の文は「わ」や「ね」などで終わるが、男性のは「だよ」や「ぞ/ぜ」などで終わるから、顔を見なくても、声を聞かなくても、どういう人間が話しているかはすぐに分かる。

今までも、こういう相違が残っているけれど、だんだんと小さくなっているみたい。最近、男性が「わ/わよ」をよく使う一方で、女性が「だ/だよ」を使うようになっているわけです。男の人は女のような碑現を言えば言うほど、女の人は男のような碑現を言うかもしれない。理由を探せずに、結果は同じ。語り方の相違はもうすぐなくなってしまう可能性がある。

この言語転化は必ずしも悪いことではないけれど、もし理由が悪かったら、転化の結果も悪くなるかもしれない。アメリカと同じように言語の転化とファッションスタイルの転化の間に関連があれば、ファッションスタイルの調査には答えが見付けられるだろうか。現在の日本は「世界の現代ファッション出身」だと言われるので、個人的なスタイルが多いわけである。一枚には説明できず、一つのスタイルを選び、そのスタイルと言語の転化の関係を少し分析する。その一番適当なスタイルとして、ギャル男が挙げられる。

ギャル男と言うスタイルの特徴は、名前通り、女性のように見られるためにアピアレンスを変わることです。それはどうやって出来るか聞けば、簡単なことではなく、結構特技がかかるそうである。まずは長い髪の毛が必要で、多くの男性は髪に色(例えば茶色や黄色など)を入れ、アイロンでまっすぐにさせる。例えば、「MEN’S KNUCKLE」という人気のギャル男雑誌を見てみればよい。一面に収まりきらないほどたくさんギャル男のモデルが集まり、女性らしくポーズをしている。

I made this picture myself using Photoshop, and clippings from "Men's Knuckle"

髪だけでなく、ギャル男は化粧をする。アメリカでは化粧をするのは女に限るけど、最近の日本は違う。高校の時、北海道から来た日本人の留学生と友達になった。この友達はギャル男で、毎日一時間ぐらい髪のスタイルを作り、顔を輝く見えるように化粧をし、格好いい服を選び抜いた。この友達から服の選び方を教えてもらったけれど、そういう髪スタイルや化粧をするのは、僕には無理である。ギャル男ではないからである。

日本の女性は皆ギャル男のことが格好いいと思っているわけではないが、イケメンだと思っている女性の数が増えてきたようです。そのような女性の数が増えれば増えるほど、ギャル男の数も増えるに間違いない。結局、女性に対して好きと思わせるように、若い男性は頑張り、または、女性が好きだと思ってくれるのならば、若い男性は何でもできるらしい。これは特に問題ではないけれど、男性が女性のためな物を使い続け、女性のようなヘアスタイルをし続けると、女性のような気持ちになる可能性があるのではないだろうか。

そんな気持ちになれば、マジで女っぽく喋るかもしらんわ。

これ、もしかして、日本のファッションと言語の関係の原因じゃねぇかよ?

アメリカのは?まぁ、関係ねぇだろう。難しすぎ。


「どうかいても嫌な奴は嫌な奴」町田康

昨日、町田康の「どう書いても嫌な奴は嫌な奴」という作品を読みました。今まで、色々な筆者の作品を読んだことがあるんだけど、町田さんの作品が一番面白いです。なぜなら、町田さんの書くスタイルにより、文章の内容が特に刺激的になるからです。その文章では主に、町田さんは日本語の文末について書いています。

まず、あなたはタイトルの意味は何だろうと考えるでしょう。詳しく説明すると、町田さんによると、文体が です・ます調、だ・である調のどちらで書いてあっても、文章の内容を見れば、嫌な奴ならその特徴が簡単に認められるんだが、読者の大方が文末しか見ないので、著者はいい人か嫌な人かを、その印象だけですぐに決めてしまう。例えば、「僕」という主語と です・ます調を、ともに使うなら、読者は「ああ、彼はへりくだった方ですね」と感じるけど、「俺」か「私」と だ・である調を使うなら「傲岸不遜な奴みたいだね」と不公平にも感じます。

誰かにそうかもしれないけど、過激な例を使ってみると、この理論はもう保てなくなる。例えば、一方で、

僕は皆さんのことが大嫌いです。よく分かりませんが、なんとなく、世の中が大嫌いになりました。電車を乗る時に、他の乗客皆を殺したくなる時があります。何ででしょうか。

自分ででっちあげた例ですが、この文を読んでみると、文末をどう変えたって、この人には救いようがないことが分かる。次は同じ内容について、「俺」と「だ体」で書きます。

俺は皆のことが大嫌いなんだよ。分かんないけど、いつのまにか周りの人たちが大嫌いになったんだよ。電車を乗る時、必ず乗客の奴らマジで殺したいんだよ。分かった?

これを読めば、雰囲気の相違が分かりやすいはずだが、この人の性格も忍ばせられないわけです。

やっぱり、町田さんが書いたタイトルの通り、「嫌な奴は嫌な奴」ですね。


病気

今週末は最悪。 皆さんが「なんでだろう?」と考えているかもしれない。

じゃあ、さすが俺のラック、七月四日の週末は。。。病気。すごい病気。

木曜日

八時ぐらい起きた。部屋から出てきて、すぐに「やっぱ、病気だ」と言った。 ちょっと熱があり、のどが痛く、はきたい気がした。

父ちゃんの答えは「オイ、俺にも病気渡すな!部屋戻れよ!」。

そういう理由で、朝から夜までベッドで時々眠り、マンガを読み、日本ドラマとか映画を見た。楽しそうじゃない?理想な夏の日じゃない?違う。 全部の見た映画はホラーか病院のテームだった。 例えば、Mr. Brain(きむたくの新しいドラマ、ちょう面白い)、Negative Happy Chainsaw Edge(見ると分かるはずだ)、ひぐらしのなく頃に(怖すぎるアニメに基づく)などだった。

驚いたことに(待ってくれ。。。驚いた? ホントですか?)、寝るべき時に、全然眠れなかった。 驚いた? 悪い有名が見えた。

金曜日

気分が良くなったと思いますか?

もっと良くなくなった。熱が熱くなった。寒気が寒くなった。飲み込めなくなった。のどのせいで何も食べられなかった。胃がはくほど痛くなった。返答通が現れた。死ねばいいと思ってた。最悪だね!

医者さんに伺った。医者さんが、ちょっと恥ずかしいことに、「何時大学から戻ってきましたか?」と聞きました。問診じゃない?教科書か学んだね。。。

「あの。。。十一月から。。。です。。。」と俺は答えた。何でそんなこと聞いてんのかよ!

「そっか。。。大学のかわりに。。。何していたんだ?」雰囲気わるい!

「あの。。。色々。。。です」嘘!仕事!マンガ作るの!日本語勉強!

「そっか。。。じゃあ、どこで病気になったと思いますか?授業じゃなくて、仕事の教室じゃなくて、どこかな?」医者大嫌い。もう言ったの?この人は俺の普通の医者さんじゃなかったよ。俺の医者さんが旅行している。しない方が良かった。

「ジム。。。かもしれない。毎日行くわけですから。」と俺は言った。それは嘘じゃなかった。これ以上何も聞かないでくれよと念を送った。もちろん、それだけじゃなかった。

「毎日行くんですかね。 じゃ、完璧な健康べきですね。」なにそれ?戦いたいのかよ?いい気分じゃないよ!しってる?

「はい。そうです。完璧な健康です。診察始めてくれませんか?」それで会話が終わった。現実の診察はつまらなかった。Strep Throat があった。薬をもらい、毎日二回服用することになった。

土曜日

まだ病気だった。薬を服用していたのに。花火に行けなかった。今までの人生に最悪の七月四日だった。

日曜日

今日は元気。問題ない。

ごめん、この話はつまらないですね。ポイントはないですよ。

ただ病気の週末です。

全部読んでくれてありがとう。

お大事に。


村上春樹:「真っ白な嘘」。。。ホントに?

久しぶり!ごぶさたしてごめんなさいね。このポストで新しいセクションを書き始めます!

先日、日本語中級の教科書を勉強し終わりました。「終わった」というのは事実ですが、もちろん、「全部覚える」という意味はないので、時々レビューします。それにしても、終わったことは終わったから、勉強するために新しい本を買ちました。この本は「Read Real Japanese Essays」というのです。八人の筆者がエッセイを書いてくれたから、自習ならいいと思います。また、色々な日本の小説とか、雑誌とか、新聞を持っているので、だんだんと読み勉強しながら、ここでそれぞれの分析を書くつもりです。

この分析を読んだ後でコメントがあったら、討論したいなら、どうぞここで書いて下さい。すぐ返事しますよ。コメントに待ち楽しんでいます。

「Read Real Japanese Essays」という本で村上春樹の「真っ白な嘘」を読んでいました。このエッセイはわりに分かりやすかったと思います。大テームは、例の嘘で、村上さんは自分のついた嘘について書いています。

最初の分は、なんとか驚いたことに、「僕は嘘をつくのは得意ではない」と書いてある。その後、自分の大きな嘘について書き続ける。例えば、ある月刊誌が村上さんに書評を書き頼んだが、その時に村上さんは本を書いていたし、時間が少なかったし、あまりやりたくなかったので、偽の伝記をでっちあげようと思った。そうすれば、読む時間がなくなり、あまり興味がない本を読まなくて、書くのはもっと面白くなるかもしれません。

それは一番目の嘘。二番目のは若い頃からです。村上さんが「生意気盛りの若い頃は、インタビューでもしばしばいい加減なことを言っていた」といっています。そんなインタビューで「どんな本を読んでいるか」と聞かれたら、再び、偽の筆者をでっちあげたり答える。エッセイに「もちろん、どっちの作家も実在しない」と書いてあるし、嘘をつくのは実際に「得意ではない」わけではないと思っています。

エッセイの末には「真っ赤な嘘」の言葉の説明がある。村上さんは奈良時代の歴史、または「真っ赤な嘘」の歴史を教えるのに、全部は架空な情報だから、読み者にも嘘をつくことも出来るみたいです。「赤い大福餅を12個口に詰め込んで窒息死させるという酷い刑罰があったからです―――というのは例によって嘘だ」と書いてある。当然にまだ嘘をついています。

村上さんは最初から嘘がつけないと言っているけれど、なんとなくたくさん嘘をついているわけです。本当に嘘がつけないなら、何でそこまで嘘をつくのが出来るかな?それとも、大福餅の段落は読み者のための嘘だから、そしてその嘘にこだわっているので、もしかして全部のエッセイは読み者のための嘘のではないかもしれないですか。最初の分は嘘一方で、全部は嘘と思います。何よりも、知っていることに、全部は事実というわけにはいけない。

とにかく、どこが事実か嘘か、あまり大事なことじゃないから、真っ赤な嘘より、害がないのいわゆる「真っ白な嘘」(little white lie)じゃない?